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一歴史学者の、いわば抵抗の記録
東西交流史、日本史、日本思想史にまつわる日々の格闘―仕事、読書、雑感―


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というわけで、PHSの件の勢いから、これまで躊躇していたtwitterのアカウントを作りました。
社会問題や研究についてのみ発信します。

今後とも格別のお引き立てお願い申し上げます。
https://twitter.com/AkihideOshima


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PHSの廃止と熊本地震
今日突然ソフトバンクから7月でPHSの廃止の連絡が来ました。

熊本地震の際、携帯は一切通じなかったけれど、PHSは普通に通じました。
確かにラインも通じたかもしれませんが、今後も通じるとは限らないし、
何より複数のツールがあることは災害時に効力を発揮すると思います。

このように災害時に有効なツールだと認識していますし、電話会社はある意味公共インフラの側面もあると思っているので、
新自由主義的な経済論理で廃止するのは甚だ遺憾です。

ソフトバンクにはそのような企業であってほしいなぁ。



【リポジトリ】志筑忠雄の所用印ともう一つの字(あざな)
志筑忠雄の研究がかなり進んできました。

志筑忠雄の所用印ともう一つの字(あざな)」(『文彩』16号、2020.3)

今回は古賀十二郎の手稿研究ノートから、
これまで忘却されてきた志筑忠雄の所用印(の模写)と印記の字(あざな)を取り上げた上で、
志筑の号と字の由来を踏み込んで推察しました。

謙遜ではなく、本当に短い小文で裏付けが不足していて、
問題点は盟友・平岡隆二氏が的確に御指摘くださったので、今後の指針になりました。

志筑忠雄については、この間、新資料を随分発掘したので、
当面あと3点ほど論じたく思い、今は資料の整理に着手しているところです。



漂えど沈まず
家にいてたまにテレビをつけると、意味のない知識量を競い合う番組が多くて閉口します。
とはいえ、知らないことが多いのですが。でもやはり、このような事にあまり意義を感じることはありません。
歴史や人間を感じる知識ではないからです。

そんなやるせない夜は、開高健に限ります。
巨匠が好んだ、あるいは生み出した格言・名言を集めた本があります。

漂えど沈まず』(小学館、2013)

該書は、先哲の知恵、そして読書と言葉・表現の可能性と素晴らしさを教えてくれます。

表題の「漂えど沈まず」は、パリ市民の紋章ともなっているラテン語の標語Fluctuat nec mergiturで
普通に訳すと「たゆたえども沈まず」、これを開高は表題のように訳しました。
落ち目の時も色々あるけれど、歴史(人生)の荒波を生き抜いていく、という意味になりましょうか。

本書から好きな言葉を1つ。

「小説は形容詞から朽ちる、生物の死体が眼やはらわたから、
もっとも美味な部分からまっさきに腐りはじめるように」(『輝ける闇』)

4月から1年間、月1で雑誌に歴史コラムを書くことになりました。
「漂えど沈まず」を題名として書けたらと思っています。



猫部(仮)
全学共通科目を受講している他学部の学生(1年生)から、
思いがけなく、猫部(仮)の立ち上げをしたいと相談を受けました。

簡単に言えば、大学に住んでいる複数の野良猫の、餌や糞尿などの管理と棲処の整備などの保護をして、
責任を持って共生する環境を作る活動をする大学公認のサークルを立ち上げたいというものです。
訊けば、京都大学や同志社大学などにはこのようなサークルがあると言います。

なぜ顧問に自分が?と訊ねたところ、
学生曰く、周囲に相談すると、私が猫好きの教員としてとても有名だったようです。

という訳で、仕方なく?喜んで?引き受けました。

長年、猫を保護して殺処分をさせないNPOの活動にも参加したい気持ちが強かったのですが、
重度の猫アレルギーと、車を持たない生活をしていることから、役に立たないだろうなと考え、躊躇していました。

ですが、今回のこのサークル立ち上げがうまくいけば、
まずは大学の環境整備からですが、微力を尽くすことができます。

しかし、顧問が多くなりました。
R研究部は専門と重なるのですが、なぜかスポーツ関係のサークル(これはやめる意思を示しましたが)に加え、
歌唱関係のサークルも引き受けていて、来年もしかすると演劇関係の同好会が立ち上がるとそれも担当することに。
演劇系には感性が乏しく、一番苦手な分野なのですが…

スポーツ関係以外は、いずれも思いがけない学生が、顧問引受先を探す中で私に辿り着き、
頼って依頼してきてくれたものなので、
若い人の意思やパワーを面白く感じ、飛躍を期待しつつ、顧問を引き受けました。

それにしても、こういうことがあるから大学は面白いですね。
看板となるサークルの名前がまだ無いので、まずはどのような名前を持ってくるか楽しみです。



【再追補】研究への関わり方
またしても古典・歴史の意義。

現在、全学共通(教養)科目の現代史の授業で、
近現代史料である岡田啓介内閣時の「国体明徴声明」(1935年8月3日)に触れましたが、
原史料を読むと「天皇」の前に闕字(欠字)が認められます。
(史料集などでは、闕字が消されて掲載されていることが多いようです)

歴史史料の読み方または古典を知らないと、
この闕字によって敬意を示すことが分からないまま読んでしまうので、
文章の意味合いを正確に汲み取ることができません。
(よって史料集も闕字を反映すべきだと思っています)

また、「国体明徴声明」冒頭の部分は「日本書紀」からの引用です。
「日本書紀」を覚えこんで、冒頭部分がその引用と気づけるかどうかは大きな問題ではなく、
(勿論、過去の読書の記憶を頼りに見破れると凄いのですが)
肝要なのは、それが典拠のある文章だと察知すること。(その後調べて典拠を同定します)
原文の意味するところが何であるか。
そして、それを援いて何が言いたいのか。
さらにそうして引用する営為が、歴史・古典に発言の正当性を求めているということなんだと
読み取ることではないでしょうか。

つまり、現代史料を読むにあたっても、正確に読むには古典・歴史の知識・技術が必要なのです。

…とまあ、またしても備忘でした。



米原万里とロバート・キャンベルと志筑忠雄
ロシア語の唯一無二の名通訳であった故・米原万里女史は、その経験から、
「日本語を徹底的にやると、外国語をやる時、すごく入りやすくなる」と述べていて、、
つまりは、外国語を理解するには、言葉に対する客観的な一つの体系を持つことが必要で、
その体系を得るには母(国)語を徹底的に知ることが最も近道であると言っています。

キャンベル先生もまた、英語を分析的に学ぶことができたから英語を距離を置いて眺められる。
母語を客観視できなければ外国語の力もつかないという旨を述べられているようだが、
やはり言葉の達人が仰るところは同じですね。

志筑忠雄も徂徠や宣長の言語学を徹底的に学んでいたことで、
そのことが、同時代に類を見ないオランダ語理解への到達の素地となったと思っていて、
そのことは拙稿「蘭文和訳論の誕生」で記しました。(少し手直ししようとは思ていますが)

あと、米原万里は、ロシアでは「作文」は「構造」から書かせることを紹介した上で、
戦後日本の教科書について、
「国語に出てくる文学的な言語と、社会科や理科の説明的な言語がそれぞれ別の言語」と論じ、
ロシアでは、理科、社会、地理、歴史を読み物(国語)で教えることを説明し、これを推奨している。

今の教科書はどうなんだろう…と、今回も備忘でした。



【追補】研究への関わり方
忘れないようにメモ。
歴史と古典の共通点と差異。

ともに先人の智慧、人間の生き様に学ぶ点は同じ。

一応、日本文学の学科を出て、その後歴史学を専攻してて痛感するのは、
歴史に関して言えば、学者は勿論のこと、多くの一般の方が、
それぞれに歴史に対する強い想いと歴史観をお持ちで、自身のアイデンティティとしている方がとても多いこと。
どこかでお話をすると、ありがたいことに、必ず強い質問、意見、気持ちをぶつけられがちです。

一方、古典をアイデンティティとしている一般の方は稀な気がします。
言い方を変えれば、古典は歴史のようには一般の方を巻きこめていない現状があるのではないでしょうか。

にもかかわらず、高校で日本史は選択科目(世界史は必修)で、古典は必修という違いもありますね。
(間違っていたらすいません)

ただ、歴史(地理)科目は、編年的に事項を羅列した、知らない知識を覚える要素が強いです。
その意味では語学や理科系科目と通ずるところがあります。

古典の文法は上記と通ずるところを感じますが、
読み物は、知識の増大以上に、思考力や感受性、自他認識の感覚を育てる要素が強いのではないか。
そういった意味で、乱暴かもしれないですが、
高校の古典科目(の読み物)は音楽科目や美術科目と同じカテゴリーと見ることも可能な気がします。

だから何だと言うことはないのですが、
最近忘れっぽいので、自分のために基本的な事項を少し並べたメモでした。



研究への関わり方
もう何年も、後輩や研究仲間には、研究と自分の人生の在り方について、その想いや体現するところを伝えてきました。
(ありがたいことに、菱岡憲司さんは、玉著のあとがきで、そのことについて軽くですが言及してくださっています。)

今日何気なく目を通した漫画で、
踊りを志す少年が、舞台に立つ時に、自分はなぜここにいるのか、ここにいる意味は何かと問う場面で、
先生からこのような言葉がありました。

「全身全霊で魂を燃やしきるためだ」

そして続けて

「生きる、豊かさを…愛を持って伝えるためだ」

ずっと前者の精神で取り組んできたのですが、
ここ数年、気力と体力が衰え、力も熱も持続せず、なかなか以前のようにはいかなくなりました。
同時に、厳しさばかりを持って見ていた研究に対し、後者のような想いも芽生えてきました。

何気なく読んだ漫画に、自分の研究への関わり方が言葉で書いてあって、ちょっと吃驚しました。

ところで、私は文学研究者ではないし、文学に対して理解も薄いけれど、
近年の必修化の是非をめぐる議論、答えにはなってないけれど、
歴史や歴史学と同じように、文学もまた、
「[人間の]生きる、豊かさを…愛を持って伝えるため」に学び、楽しみ、研究するのではないかと思っています。

勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信、2019)、
早く読まなくちゃ。



【リポジトリ】〈黒船〉言説の誕生
過日紹介しました卒業生の姫野華菜「〈黒船〉言説の誕生」(『国文研究』第64号、2019)が、
熊本県立大学の学術リポジトリに掲載されました。

『史学雑誌』8月号の日本史論文一覧にも名前を挙げていただきました。

「黒船」を近代日本人のメンタリティが投影された言説と捉え、その形成史を鮮やかに描き出しています。
ぜひご一読を。